倉敷市の矯正歯科専門医院/インビザライン(マウスピース矯正)

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院長紹介

中塚 雅行

中塚 雅行Nakatsuka Masayuki

<経歴の紹介>

1976年
倉敷市水島に生まれる
1982年
学校法人 岡本学園 あさひ幼稚園 卒園
1988年
岡山県倉敷市立第5福田小学校 卒業
1991年
岡山県倉敷市立水島中学校 卒業
1994年
岡山県立倉敷古城池高等学校 卒業
1994年
奥羽大学歯学部 入学
2000年
奥羽大学歯学部 卒業
2001年
奥羽大学歯学部付属病院 臨床研修歯科医師修了
2001年
奥羽大学歯学部 大学院歯学研究科 入学
2002年
奥羽大学歯学部 大学院歯学研究科 中途退学
2002年
にしむら矯正歯科医院 勤務
2010年
医療法人 にしむら矯正歯科医院 理事
2014年
医療法人 にしむら矯正歯科医院 退職
2015年
2月6日 倉敷市水島地区に”みやび矯正歯科医院”を開院

・日本成人矯正歯科学会認定医
・インビザライン認定ドクター

趣味:写真 オーディオ スキー 花火鑑賞 鉄道

出身は倉敷市水島地区です。
福島県にあります奥羽大学歯学部へ進学いたしました。
大学で歯科全般について学習する中で、不思議と矯正歯科の分野に強く惹かれて行きました。
ちょうどその頃自分自身も矯正治療を経験することになりました。

私自身もいわゆる”出っ歯”でした。
歯並びが本当に嫌で小さい時からのコンプレックスとなっていました。
この歯並びを治したくて、治したくて・・・
歯ならびを治せば自分が変われるような気がして矯正治療を受けるか散々悩みました。随分と担当の先生と話し合った思い出があります。
最終的には、ずっと気にしていた歯並びを治して思いっきり笑いたい!
自分を変えたくて思い切って人生の一大決心をして(大袈裟ですね・・)矯正治療を開始しました。

治療を開始してみると自分を変えることに挑戦しているという誇らしい気持ちが湧いて来ました。
自分は変われる、自分は今変わっているんだ!そう思いました。

装置が外れた時の解放感、達成感は一生忘れられない思い出です。
笑顔に自信が持て、写真を撮るときに思いっきり笑えるようになりました。
矯正治療が終わった後の写真には歯を見せて笑っている自分がいました。

学生時代の自分自身の経験から本格的に矯正歯科を目指そうと思いました。

大学卒業後は母校の歯科矯正学講座に2年間所属させて頂き、その後、縁があって福島の矯正歯科専門医院に12年間勤務いたしました。
12年間の勤務の間に成人の矯正治療を中心に様々な研鑽を積ませて頂きました。

矯正治療によって歯並びはもちろん、表情や性格まで変わられた方をたくさん見て来ました。
コンプレックスから解き放たれて、口元を気にせず、思いっきり笑顔を見せてくれる方や人前に出ることが苦手では無くなったとか性格まで明るくなる方も多く見て来ました。

そして、私はある種の確信を抱きました。
歯と歯並びの美しさは人生の幸福に貢献すると。

素敵な歯並びから生まれる健康的で魅力的な笑顔は、その方をより魅力的に見せる重要なコミュニケーション手段の一つだと。

12年間勤務させて頂いたの矯正専門医院を退職いたしまして、出身地の倉敷に “みやび矯正歯科医院” を開院いたしました。

様々な方に支えられ、引っ張られ、ようやく3年目を迎えようとしています。
「目立たない矯正治療 から 気づかれない矯正治療」 というご要望にお応えしながら、矯正治療を良い思い出にするべく邁進して参りました。

患者さんの人生に関わる仕事をしているという責任感は重いものです。

それでも患者さんの人生を良い方向に変えるお手伝いが出来たという手ごたえを感じる瞬間、矯正治療を担当していて本当に良かったと幸せを感じる時です。

開院によせて

福島で大学の同級生の妻と結婚しやがて2人の息子が生まれました。
次男が生まれた時、次男にミルクをあげる2歳の長男を見ながら
嬉しさと同時に4人に増えた家族を支えなければという責任感を感じました。
普通の幸せな家庭生活が永遠に続くと信じていました。

2010年5月、次男の生後1か月後の事でした。
妻が乳がんだと宣告されました。

晴天の霹靂という言葉は知っていましたが、
まさか自分の家族に降りかかってくるとは想像すらできませんでした。

次男は生後1か月で断乳
絶望と恐怖やり場のない怒り、嫉妬
子供たちのことを考え、涙が枯れるまで泣き腫らしました。
圧倒的な恐怖と絶望の前に、日々の景色が色褪せて見えました。

それでも希望を持ち、前に進もうと妻と誓いました。
家族の未来を信じて。

長男が3歳、次男が1歳の時に東日本大震災と原発事故を経験しました。
幸い家族は無事でしたが、11日が廻ってくるたびに思い起こされます。

東日本大震災、東京電力福島第一原発の事故は続いていましたが、
徐々に日常を取り戻して開院に向けた準備を進めていた2014年。

しばらく遠ざかっていた病魔が再び妻を襲いました。

乳がんになった後は歯科医師としての仕事から距離を置き、
朋宏と爽介の子育て食事療法を中心とした治療で元気に活動していました。

がん患者さんの集いをサポートしたり、
困難な状況にあるがん患者さんの為に。

彼女は持ち前の明るさと頑張りで活動していました。
克服したかに思われました。

体調に変化があったのは2014年の春でした。
強いストレスをきっかけとして舌の痺れが出現しました。
帯状疱疹だと判明するまで時間がかかりました。
時間が経っていたため抗ウイルス薬はあまり効果的ではありませんでした。

夏場から急に妻の体調は悪化しました。
喉頭蓋(喉の奥)に癌が再発しました。

10月になり、突然激しい頭頚部の痛みが出現、舌の麻痺が再び酷くなりました。
液体しか飲み込めず、声帯が麻痺して、
体重が目に見えて落ちて行きました。

それからは筆談でした。

脳頭蓋底の腫瘍も判明、腫瘍が延髄を圧迫し、頚椎を吸収していました。

完治の可能性はありませんが、
痛みの緩和を目的に放射線治療を2014年10月16日から入院して開始、
痛みの緩和のために麻薬系の鎮痛剤を使いながら過ごしました。

妻は放射線治療を受ける事に抵抗がありましたが、
少しでも子どもたちのために時間が欲しかったのです。

しかしながら、
本当に本人のためになっていたのか、
却って惨い事を強いてしまったのか、
望み通り何もしなかった方が幸せだったのか。

僕には分かりません。

最期の思い出は、
病院から一時帰宅して行ったバルーンフェスティバルでした。
その頃には鎮痛剤は全く効かない、水や唾も飲み込めない、左目は見えていない、
自力でベッドから起き上がることも出来ないような状態でした。

病院から止められましたが「明日死んでも後悔しない」と言われ、
家族4人で熱気球の体験搭乗をしました。
亡くなる2週間前の事でした。
その時の写真が家族で撮った最期の写真となりました。

次男の幼稚園の入園手続きのため知らせを聞いたのは倉敷でした。

最期まで意識ははっきりとあり、
11月2日の午前2時にから
—————————
だいすき
ごめんなさい
ゆっくり帰っておいで
—————————
というメールを受信しました。

それが彼女からの最期の言葉となりました。

2014年11月2日 午前10時30分彼女は痛みの無い世界へ旅立ちました。
彼女は悟っていたのでしょう。
出会って16年、結婚して10年目でした。
彼女は周りを明るく照らす太陽のような存在でした。
私は彼女に照らされて輝く月のような存在でした。

そして私は4歳と6歳の息子を抱えたシングルファーザーとなってしまいました。
幼くして母親と死別いたしましたので、子供達の心は大丈夫なのかとかなり心配致しました。
しかし子供たちは親の心配をよそに元気いっぱいで、子供達に振り回される日々です。

彼女の形見でもある彼らがいてくれて本当に良かったと思っています。
僕を支えて助けてくれる大事な大事な宝物です。

親が子供を育てる・・・とんでもない
子供が僕を親に育ててくれているのです。

亡くなる1か月前、妻が病床で私に、
「あなたは矯正歯科専門で開業して世の中の役にたち、子供たちを育て上げて欲しい」
と筆談で託されました。

妻といっしょに歯科医院で診療するという夢は叶いませんでした。
妻に”みやび矯正歯科医院”の開院を見せることもできませんでした。

しかしながら妻の遺志を引き継ぎ、子供たちのために、患者さんのために、地域のために、
矯正歯科専門医として”より素敵な笑顔のために”貢献して参りたいと思っています。

それが私の原動力であり、妻の望みだと信じています。

長文をお読みいただき感謝いたします。

みやび矯正歯科医院 中塚雅行

妻の遺志を引き継いで、子供たちのために、患者さんのために、地域のために